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山手線の駅名の由来
(大崎駅~田町駅編)

2020.05.28

日常

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こんにちは。
クリエイティブ制作部の中山です。

コロナウィルスの影響もあり、日用品の買い物以外はほぼ自宅で過ごす毎日です。自宅での過ごし方にも自分なりの楽しみ方を見つけてはいますが、未だになんだか不思議な感じがします。

さて、定期的に巡ってくる日常ブログの担当ですが、わたしは筆が遅いので、日頃から少しずつ記事を書き溜めるようにしています。今回ブログを書くにあたり、書き溜めていたデータを開いてみると、下記のような書き出しで未完の記事がはじまっていました。

先日アップした「山手線の内回りと外回りの見分け方」の記事でも触れていますが、わたしの生活は、出勤からプライベートまで、ほぼ山手線で完結します。朝の満員電車は何年経っても苦手ですが、毎日お世話になっていると愛着が湧いてくるもので、山手線の鶯色はもちろん、もうすぐ山手線を引退する「E231系500番台」も、新型の「E235系」も大好きです。 ここ最近は社内でブログを書くようになったこともあり、次は何を書こうかなーと思いながら日々を過ごすわけですが、私の日常には桃太郎電鉄のぱろぷんてカードのようなドッキリハラハラはありません。朝起きていつものように山手線に乗って出勤し、仕事が終わると山手線に乗って帰る。派手さはないですが、代わり映えしない毎日が結構幸せだったりします。 先日、山手線に揺られながらウトウトしていた時のことです。「巣鴨~次は巣鴨です」というアナウンスが聞こえてきました。(あー…巣鴨で降りなきゃ。巣鴨…鴨ってどんな鳥だっけ…川にいるやつだっけ…)などと、ボーっと考えていたら、危うく乗り過ごしそうになりました。当たり前すぎて山手線の駅名の由来なんて考えたこともありませんでしたが、気になりはじめるとなんだか気になる。そんなわけで、今回は「山手線の駅名の由来」について調べてみたいと思います。

この記事を書いていた数ヶ月前のわたしに「ちょっと…!その記事の書き出し、使えなくなるよ。テレワークになって山手線にはしばらく乗らないよ!」と伝えたくなりましたが、山手線に当たり前に乗れるその日に向けて、テーマは変えず「山手線の駅名の由来」を調べてみたいと思います。

ただ山手線は駅数が多いので、今回は「大崎駅~田町駅」までの4駅にスポットを当てて調べていきたいと思います。なぜ大崎駅からはじめるかというと、大崎駅は車両基地があり当駅始発も多いので、いつもお世話になっているという、至極個人的な理由からです。

大崎駅

大崎駅の名前は、「大崎村」というかつて存在した村の名前に由来します。ただ「大崎」とは本来、現在の目黒駅付近(上大崎)~五反田駅付近(下大崎)の地名のことを指し、現在の大崎駅周辺は居木橋(いるぎばし)という地名でした。それが明治23年に、下大崎村、上大崎村、居木橋村、桐ケ谷村、白金猿町が合併され、「大崎村」と称したことで、周辺一帯が「大崎」と呼ばれるようになり、駅名にも「大崎」が採用されています。

長い歴史の中で市区町村の編成が繰り返されていったことは、現在の地図からも垣間見ることができます。大崎駅周辺は現在「大崎」という町名になっていますが、東五反田を越えたところに位置する「目黒駅」の所在地にも「品川区上大崎」と大崎村の前身の「上大崎村」の名残が残っています。

もともと「大崎」という地名が歴史上登場したのは、江戸時代からといわれており、秩父から続く尾崎であることに由来し、これが転訛して大崎となった説と、過去に東京湾に大きな崎(岬)が突き出ていたという説が有名なそうです。どちらの説も、今のオフィス街の大崎からは想像出来ませんが、きっと海が近い高台の豊かな土地だったのでしょうね。

品川駅

品川駅の名前は、古くからの周辺地名に由来しています。周辺地名とは、東海道の宿場町「品川宿」および、その北側の江戸湾沿岸部の呼称「品川湊」のことです。

そもそも「品川」とは目黒川の河口を中心に発達した集落につけられた名前で、元暦元年(1184)の田代文書に初めて登場します。地名の由来については下記のように諸説ありますが、有名な地名にも関わらず、由来が特定されていない点にロマンを感じます。

  • 目黒川の古名が品川と呼ばれていた説
  • 上無川(神奈川)に対して下無川(しもなしがわ)が略されて品川になったとする説
  • 風光明眉な品良い土地であるので高輪に対して品ヶ輪と名づけた説
  • 鎧に用いる品革を染出した所からという説
  • 領主の品川氏から起こった説

今ではターミナル駅として有名な品川駅ですが、同じく駅名に「品川」のつく京浜急行電鉄本線「北品川駅」まで足をのばしてみると、昔の宿場町の名残が感じられます。
品川駅から北品川駅までは徒歩10分程度ですので、品川駅でお降りの際はぜひ散策してみて下さい。商店街があったり、川沿いには屋形船が泊っていたりと、きっと一昔前までは、品川駅周辺もこんな風景だったのかな?と思いを馳せることができると思います。

高輪ゲートウェイ駅

2020年3月14日に暫定開業された「高輪ゲートウェイ駅」は、山手線としては49年ぶり京浜東北線では20年ぶりの新駅です。

この山手線の中では少し違和感のある横文字の入った駅名ですが、JR東日本ではじめて公募で決められた駅名です。応募総数は6万4052件。その中から選考の結果「高輪ゲートウェイ駅」に決定したと2018年12月4日に発表されました。

「高輪ゲートウェイ」…否定的な気持ちはまったくないのですが、1デザイナーとしては、まずは字数を確認せざるを得ません。8文字…もしも今後山手線の路線図を書く機会があったら、周辺の駅名とバランスをとりながら、どうやって収めてやろうかと考えてしまいます。

そんな話しはさておき、「ゲートウェイ」とは「門扉(gate)がついた入口、道(way)」を意味する言葉です。JR東日本の広報をみると、駅名を決めた理由の1つに「新駅周辺は多くの旅人やその送迎客でにぎわう、江戸の玄関口としての役割を果たしたエリアだった」と挙げています。

調べてみると、江戸時代、高輪ゲートウェイ駅の付近には、東海道の江戸の出入口として「高輪大木戸」が設けられており、当時は月見の名所で付近には茶屋店も立ち並ぶ賑やかな場所だったそうです。また、伊能忠敬の日本地図作製の測量起点もここだったと言われています。

高輪ゲートウェイ駅が建つ前は、JR東日本の広大な車両基地があり、周辺を歩く時には、タクシーが通るのも難儀するような低いガード下があったりして不思議なエリアだと思っていましたが、そんな歴史があったのだと驚きました。なお前述した「高輪大木戸」は、高輪ゲートウェイ駅から歩いて6分程の場所に、国指定史跡「高輪大木戸跡」として今でも残っています。興味のある方はぜひ散策がてら立ち寄ってみてはいかがでしょうか?

まだまだ駅周辺は開発が続いており、本格的な街開きは2024年の予定です。今後「高輪ゲートウェイ駅」が新しい東京の玄関口として、どんな発展を遂げていくのかが今から楽しみです。

田町駅

田町駅の名前は、旧地名に由来しています。『文政町方書上』によると、江戸時代に田畑が町屋へと移り変わったため、「田町」と呼ばれるようになったといいます。明治初期は頭に芝を付けて「芝田町」と呼ばれていましたが、こちらも「芝」と「三田」に分割され、昭和30年代には町名はなくなっています。

芝田町は海岸に面した細長い町で、1909年に駅が出来た当初は、現在の芝浦口(東口)一帯はまだ陸地ではなかったといいます。品川湾の築堤だった田町から見る車窓の風景は、きっと海が見渡せて綺麗な風景だったことでしょう。

今は周辺の開発が進みその名残はありませんが、田町駅から歩いて8分程の場所に「潮見坂」という坂が残っています。この潮見坂、江戸時代には坂上から海辺一帯が見渡せたようで、江戸時代後期に描かれた『江戸名所図会』にも坂上からの海の見える景色が描かれています。残念ながら現在の景色は様変わりしていますが、開発が進み地名が消えても、ひっそりと名残が残っていることが感慨深いです。

まとめ

いかがでしたでしょうか。 毎日通勤で利用している時は、乗車駅も降車駅も決まっていて素通りする駅も多かったのですが、駅名の由来を1駅ずつ調べてみると、普段とは違ったそれぞれの街の表情が見えてきて楽しかったです。
コロナウィルスの影響が落ち着いた頃には、ぜひ1駅ずつゆっくりと周辺を散策してみたいと思います。