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群馬県の歴史

2021.11.03

日常

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こんにちは!データ解析チームの豊嶋です。
ここ数年はコロナウイルスの影響もあり、中々実家に帰省が出来ていないという方も多いのではないでしょうか。

私も本来であれば毎年夏と冬の2回、群馬県にある祖父母の家へ親の帰省と共に訪れていたのですが、ここ2年ほどは1回も行くことができておりません。
そんな中、ふと私の祖父母が住んでいる群馬県ってどんな県なのだろうかという疑問が浮かびました。
実を言うと、毎年帰省はしていたものの群馬県の知識はほとんどないに等しく、群馬県の有名なものや歴史などを質問をされても全く答える事が出来ません...

祖父母の住んでいる土地であるのにここまで何も知らないのはまずいと思い、そこで今回は「群馬県の歴史」にフォーカスを当て、調べた内容を記事へ書いていこうと思います。

県名の由来

まず始めに知っておかなければならないことは、群馬県の県名の由来です。
自分の出身地であっても、県名の由来を知らない人は多いのではないでしょうか。

まず遡ること約1300年前、今の群馬県の地域は「上毛野国(かみつけのくに)」と呼ばれており、その中に「車評(くるまのこおり)」と呼ばれる地域がありました。
その後、奈良時代に朝廷から各地の地名を漢字2文字で表すようにと命令が下り、その流れで「車郡(くるまのこおり)」と呼ばれていた地域は「群馬郡(くるまのこおり)」へと改名されました。
※「郡」は地名の後に付ける文字のため、漢字2文字に含まれません。

更に時がたち1871年、明治時代に廃藩置県が行われたことにより、今の群馬県という地名が命名されました。
群馬県と命名された理由は、当時最も人口が多く栄えていた「群馬郡」から取ったとされています。
また、この命名された日をお祝いし、10月28日は群馬県民の日となっています。

歴史上の有名な人物

次に紹介したいのは、群馬県の歴史上の人物です。
群馬県からは数々の偉人が生まれています。
今回はその中でもほんの一部とはなりますが、ご紹介できればと思います。

1.上泉伊勢守信綱(かみいずみいせのかみのぶつな)

1500年頃に前橋で生まれたとされている、戦国時代の武将です。
剣聖と讃えられる剣豪の一人で、新陰流という剣術の流派を創始したことでも知られています。
後にこの流派は徳川将軍の指南役となる柳生氏という人物に授けられ、その剣術や精神が徳川300年の礎を築いたとされています。

また、現在の竹刀のきっかけとなる袋竹刀(ふくろしない)を考案し、斬りあいの稽古なども体系化したことから、剣術の祖と云われています。
その他にも、文武両道で剣術以外だけでなく教養も高く、軍学にも優れていたと伝えられています。

2.内村鑑三(うちむらかんぞう)

1861年、高崎藩士の長男として江戸小石川に生まれた、明治・大正期のキリスト教の代表的指導者です。
少年時代は群馬県で過ごし、その後札幌農学校に入学。そこでキリスト教による教えに感銘を受け、キリスト教徒になりました。

日露戦争では「非戦論」を発表し、無教会主義キリスト教の主張者として、聖書のみに基づく無教会主義を創設したことでも知られています。
また、「基督信徒の慰」「求安録」など、多くの著書も執筆しています。

3.萩原朔太郎(はぎわらさくたろう)

1886年生まれ、前橋出身の詩人家です。
前橋中学校在学中に与謝野晶子の作品に出会い感銘を受け、そこから短歌を書き始めたことが詩人を目指した最初のきっかけです。

在学中の1902年には、最初の作品となる『ひと夜えにし』という短歌が校友会誌にて発表されています。
その後、慶応義塾大学予科を中退し、1913年に詩人として本格的にスタートしました。
詩人となってからの代表作としては「月に吠える」「青猫」「猫町」などが挙げられます。
また、当時の主流であった書き言葉を用いた詩から、話し言葉を用いた詩を数多く発表したことで、大きな注目を集めた詩人でもあります。

その他にも、ジブリ映画「ゲド戦記」の挿入歌「テルーの唄」は、萩原朔太郎の詩をきっかけに宮崎監督が作詞したものとされています。

群馬の歴史的な遺産

最後に紹介するのは群馬県の歴史的な遺産です。
こちらも数多くの有形・無形遺産がありますが、数を絞ってご紹介出来ればと思います。

1.富岡製糸場と絹産業遺産群

まず群馬県の代表的な歴史的遺産といえば、富岡製糸場と絹産業遺産群(田島弥平旧宅、高山社跡、荒船風穴)が挙げられると思います。
これは、生産量に限りのあった生糸の大量生産に成功した「技術革新」と、世界と日本の間の「技術交流」が認められた功績によるもので、日本では18件目の世界遺産として、2014年6月に登録されました。

そもそもの富岡製糸場が出来たきっかけとしては、19世紀のヨーロッパでの絹の大量生産が始まったことにあります。この頃に開国した日本は技術輸入に努めており、その流れで富岡製糸場が設立されました。
そこから製糸関連の技術が発展し、しばらくした後に独自の養蚕の技術革新に成功し、世界中に安価で良質な生糸を輸出出来るようになったのです。

2.上野三碑

上野三碑とは、山上碑(やまのうえひ)、多胡碑(たごひ)、金井沢碑(かないざわひ)の三碑のことを指し、日本にたった18例しか残っていない古代の石碑のなかで最も歴史の古い石碑群です。
2017年にはユネスコ「世界の記憶」として登録されています。

これらの三碑は、東アジアにおける人や文化の交流などの実像を示す重要な歴史資料で、様々な人が共存して生きる大切さを教えてくれています。

また、三碑に刻まれた内容からは、中国を起源とする漢字文化や政治制度、インドを起源とする仏教が日本に伝わっただけでなく、都からさらに遠く離れた上野国(現在の群馬県)にまで伝わり、地元の人々に受け入れられたことが記録されています。

地域の宝として残し続けてきた地域住民の努力などによって、奇跡的にこの三碑が今でも現存しています。

3.かかあ天下―ぐんまの絹物語―

文化庁が地域の歴史的魅力や特色を通じて日本の文化・伝統発信、地域活性化を目的として「日本遺産」の認定を始め、そのうちの一つとして、2015年4月24日に「かかあ天下―ぐんまの絹物語―」が認定されました。

古くから絹産業が盛んな上州(群馬県)では、女性が養蚕・製糸・織物の力で家計を支え、家族の衣をつくっていました。
その働く姿を見た夫たちが「俺のかかあは天下一!」と自慢し、これが上州名物の「かかあ天下」として知れ渡るようになったことがきっかけです。

このかかあ天下に代表される絹物語をたどっていくと、日本独自のモノづくり文化や、日本経済を支えた女性たちの姿を垣間見る事ができます。
現代の文化にもこの絹物語の技術や文化が受け継がれており、活躍する女性像の代名詞ともなっています。

まとめ

いかがでしたでしょうか。
こうして群馬県の歴史について調べてみると、これまで全く知らなかった奥深い歴史や新しい知識に触れる事が出来、群馬県に対する愛着がより増したように感じます。
自分の出身地であっても知らないことは多々あるかと思いますので、もしご興味があれば、ご自身の出身地の歴史についてなど調べてみると面白いかもしれません。

また余談にはなりますが、実は群馬県高崎市のだるま生産量は、全国の約80%と日本一のシェア率を誇っています。
この「高崎だるま」は商標登録もされており、群馬県のふるさと伝統工芸品としても指定されています。
今回は群馬県の歴史についての記事を書いていましたが、他の観点から調べてみても意外な発見がありそうでワクワクしますね。

それでは本日はこの辺りで。
最後までお読みいただきありがとうございました。