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坂道探訪6

2022.12.08

日常
坂道探訪

サムネ画像

こんにちは。制作部の中山です。
暑い暑いと騒いでいた夏と短い秋が過ぎ去り、すっかり冬めいてきました。先日見たお天気ニュースの長期予報だと、「今年はラニーニャ現象の影響で、残暑が長引き、秋は短く、冬の訪れは早い」そうです。このなんだか可愛い響きの「ラニーニャ」の語源は、スペイン語の「女の子」からきているそうです。猫好きのわたしはこの用語を見かける度に、気位の高いメス猫を想像してニヤニヤしているのですが…美味しい食べ物が多く、快適に過ごせる秋を短くするとはとんでもないヤツです。
栗も梨もサンマも、サツマイモも松茸もカツオも、かぼちゃも鮭も柿も…秋には旬の食材が多いのです。ああ…ラニーニャよけしからん…この秋も食べ過ぎ必至でした。
毎度のことながら前置きが長くなりましたが、旬といえば個人的には坂道巡りの旬も秋だと思っています。どの季節でもその時々の景観を楽しむことができますが、春は気候は良いがスギ花粉がハードモード、夏は暑い、冬は寒い…やはり秋が旬と言えるでしょう。
ということで、今回も坂道探訪にお付き合いいただければ幸いです。なお前回同様に数が多いため、いくつかの坂道をピックアップしてご紹介し、残りは表形式で写真と概要のみご紹介できればと思います。なおナンバリングは前回から引き続き51番から開始しています。

51.三分坂(さんぷんざか)

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三分坂は港区赤坂5丁目と7丁目の間にある坂です。赤坂5丁目と7丁目の境界になっており、赤坂サカスのTBS放送センターの裏手から報土寺を回り込む形で赤坂見附方面に抜けます。
三分坂のある赤坂エリアは『坂の街』と言われるほど坂が多いエリアで、名前がついていない坂も含めるとその数は60近くに上ります。23区内で一番坂が多い港区でこの数を誇るのですから、個人的に赤坂エリアは都内屈指の坂の本場だと思っています。
そんな赤坂の中でも、名のつく三分坂は代表格といえるでしょう。なによりも坂の形状が特徴的で、写真をご覧いただくとわかりやすいかと思いますが、坂の途中で大きなクランクがある急坂です。都内の坂道を巡っていると時代の流れの中で再開発等の影響を受け、坂の名はあるものの傾斜がほぼ無くなってしまったような坂に出会います。それを考えるとこの三分坂の堂々たる姿よ。行き交う人は息を上げながら休み休み坂を上っていきますし、急坂故に雪が降ると高確率で通行止めになります。大都会の真ん中に不便ささえ感じさせる坂道が存在するアンバランス感に都会の坂道の魅力を感じます。

場所 港区赤坂5丁目と7丁目の間
名称の由来 急坂のため通る車賃を銀三分(さんぷん 百円余)増したためという。 坂下の渡し賃一分に対していったとの説もある。 サンブでは四分の三両になるので誤り。
※港区が設置した標識より
坂の概要 延長:約100m

52.転坂(ころびざか)

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続いての坂は転坂。転坂は氷川公園の南側から氷川坂に至るまでの坂道で、港区が設置した標識をみると「江戸時代から道が悪く、通行する人たちがよくころんだために呼んだ」と由来が書いてありました。坂名になるくらいなので、よほど大勢の人がこの場所で転んだのでしょう…。きっと江戸時代の人達が氷川神社に参拝の折に転坂で転び、「わたしこの前あの氷川神社の近くで転んじゃってさー」「え?どこ?あの坂?わたしも!」「わたしもー」といった感じで話が広がっていったのでしょうか…。この場所で転んだ方々には大変申し訳ないのですが、想像すると少し笑えてきます。
ただ今は江戸時代とは違い、コンクリートでしっかりと舗装され勾配もそれほどきつくはありません。(今やこの坂で転ぶ人は滅多にいないだろうなあ…)と思いながら、いつものように坂の下で写真撮影をしダッシュすると途中で転びました。名誉のために補足すると、転ぶには至らず躓きました。そしてちょうど近くの工事現場からおじさんが出てきたので、さも何事もなかったかのように振る舞いました。わたしの動揺はきっとあのおじさんには悟られていないでしょう…。
おじさんの姿を見送りながら(何に躓いたんだ?)と改めて坂を眺めてみると、なだらかに坂がタンコブ状に盛り上がっており、かつ舗装時期が異なっているのかコンクリートの質感が異なっている箇所があります。転ぶ要素は令和のこの時代にも存在していたのか…と先ほどまで先人の転びを想像し笑っていた自分が情けなくなりました。

場所 赤坂6丁目5番、6丁目9番の間
名称の由来 江戸時代から道が悪く、通行する人たちがよくころんだために呼んだ。一時盛徳寺横の元氷川坂もころび坂といった。
※港区が設置した標識より
坂の概要 延長:約80m

53.石榴坂(ざくろざか)

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柘榴坂は高輪3丁目と4丁目の境界にあり、品川駅高輪口から第一京浜を挟み、品川プリンスホテルと旧SHINAGAWA GOOSの間を高輪台方面にまっすぐ延びる坂です。品川駅は都内でも主要なターミナル駅で乗降者数も多いため、知らないうちに柘榴坂を通られたことのある人もいらっしゃるかもしれません。
港区が設置した標識をみると「柘榴坂(新坂)」とあります。まっすぐと延びる柘榴坂ですが、江戸時代にはカギ形に折れ曲がる形状だったそうで、明治時代になり今の直線の形状に作り変えられてから「新坂」とも呼ばれるようになったといいます。一つの坂にいくつもの呼び名があること自体は珍しくないのですが、このように両方が表記されている標識は珍しいと思います。また標識の裏面には「坂名の起源は伝わっていない。」と書かれていましたが、坂沿いに実をつけた柘榴の木があったので、昔は柘榴の木が群生していたのかもしれません。
それにしても品川駅からまっすぐと延びる柘榴坂はどことなく洗練されていて絵になります。わたしは品川エリアからほど近い場所に住んでいるので柘榴坂を訪れる機会は多いのですが、この日は雨の夕刻時だったこともあり人はまばらでした。いつもはキャリーケースを引いて歩く人や通勤通学で駅に向かう人々で賑わっているので、この日の柘榴坂はなんだかいつもと違った空気感を纏っているようで新鮮でした。

場所 港区高輪3丁目と4丁目の間
名称の由来 坂名の起源は伝わっていない。ざくろの木があったためか。江戸時代はカギ形に曲がり、明治に直通して 新坂 と呼んだ。
※港区が設置した標識より
坂の概要 延長:約440m

その他の坂

前述したとおり、ここからは表形式で写真と概要のみご紹介できればと思います。

画像 54.丹後坂(たんござか)
<場所>
赤坂4丁目2番と4丁目5番の間
<名称の由来>
元禄(1688〜)初年に開かれたと推定される坂。その当時、東北側に米倉丹後守(西尾丹後守ともいう)の邸があった。
※港区が設置した標識より
<坂の概要>
延長:15m
画像 55.市三坂(いちみざか)
<場所>
六本木3丁目と4丁目の間
<名称の由来>
明治20年代に開かれた坂。名主の名がついた市兵衛町と松平三河守忠直邸のあった三河台町との間で両頭文字をとった。
※港区が設置した標識より
<坂の概要>
延長:430m
画像 56.牛鳴坂(うしなきざか)
<場所>
赤坂4丁目1番と4丁目8番の間
<名称の由来>
赤坂から青山へ抜ける厚木通で、路面が悪く車をひく牛が苦しんだため名づけられた。さいかち坂ともいう。
※港区が設置した標識より
<坂の概要>
延長:65m
画像 57.円通寺坂(えんつうじざか)
<場所>
港区赤坂4丁目と5丁目の間
<名称の由来>
元禄8年(1695)に付近の坂上南側に移転した寺院の名称をとった。それ以前 同名の別寺があったともいう。
※港区が設置した標識より
<坂の概要>
延長:250m
画像 58.氷川坂(ひかわざか)
<場所>
赤坂6丁目8番と6丁目10番の間
<名称の由来>
ひかわざか 八代将軍徳川吉宗の命で建てられた氷川神社のもと正面に当る坂である。
※港区が設置した標識より
<坂の概要>
延長:260m
画像 59.本氷川坂(もとひかわざか)
<場所>
赤坂6丁目10番と6丁目19番の間
<名称の由来>
もとひかわざか 坂途中の東側に本氷川明神があって坂の名になった。 社は明治十六年四月 氷川神社に合祀された。元氷川坂とも書いた。
※港区が設置した標識より
<坂の概要>
延長:110m
画像 60.檜坂(ひのきざか)
<場所>
赤坂6丁目と9丁目の間
<名称の由来>
江戸時代には、檜の木が多いため檜屋敷と呼ばれた 山口藩毛利邸に沿う坂であった。
※港区が設置した標識より
<坂の概要>
延長:130m
画像 61.稲荷坂 (いなりざか)
<場所>
赤坂7丁目5番と7丁目6番の間
<名称の由来>
坂下北側に円通院があり、その境内の稲荷への門があったための坂名。坂上に江戸城中清掃役の町があり 掃除坂 ともいう。
※港区が設置した標識より
<坂の概要>
延長:120m
画像 62.南部坂(なんぶざか)
<場所>
港区赤坂2丁目と六本木2丁目の間
<名称の由来>
なんぶざか 江戸時代初期に南部家中屋敷があったためといい「忠臣蔵」で有名である。 のち険しいため難歩坂とも書いた。
※港区が設置した標識より
<坂の概要>
延長:150m
画像 63.雁木坂(がんぎざか)
<場所>
麻布台1丁目7番と1丁目9番の間
<名称の由来>
階段地になった坂を一般に雁木坂というが、敷石が直角に組まれていたからともいい、当て字で 岩岐坂とも書く。
※港区が設置した標識より
<坂の概要>
延長:15m
画像 64.鼬坂 (いたちざか)
<場所>
港区麻布台3丁目
<名称の由来>
この坂につながる「鼠坂」「植木坂」とまぎらわしく説明されたり、植木坂の一部と説明されることもあった。坂名の由来についての確証はないが、起伏のはげしい谷筋であっただけに、いたちも出没して人を驚かしていたのではないか。続いている鼠坂や近くの狸穴坂にも対応しているのかもりれない。坂下の東は崖となって谷に続き、西は山地の崖際で、いわば崖の一部を削って道としたような位置にある。
出典:「東京の坂風情」道家剛三郎 東京図書出版会
※鼬坂の標識はなく続く鼠坂の標識に鼬坂についても記述あり
<坂の概要>
延長:85m
画像 65.新坂(しんざか)※赤坂
<場所>
赤坂7丁目4番と8丁目6番の間
<名称の由来>
しんざか できた当時は 新しい坂の意味だったが開かれたのは古く元禄12年(1699)である。しんさかとも発音する。
※港区が設置した標識より
<坂の概要>
延長:140m

まとめ

最後に余談になりますが、坂の街赤坂にある「赤坂サカス」の名称の由来をご存知ですか?
今回赤坂の坂巡りをしようと情報収集していた際に知ったのですが、赤坂サカスの名称の由来には、「赤坂にたくさんある坂=坂s=サカス」という意味もあり、ローマ字表記「akasaka Sacas」を後ろから読むと「SACA・SAKA・SAKA」=「坂・坂・坂」となるそうです。まあなんと洒落たこと…。

最後まで読んでくださりありがとうございます。
それではまた次回の「坂道探訪7」で!