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坂道探訪7
2023.03.30
日常
坂道探訪
こんにちは。制作部の中山です。
記事の公開は少し先になりますが、わたしがこの記事を書いているのは2023年1月末。年末年始の挨拶をしていたのがこの間なのに、あっという間に一ヶ月が過ぎ去ろうとしていることに驚きます。
個人的に毎年感じることですが、1月だけ2倍速のスピードで過ぎ去っていくような気がしてなりません。1月の和風月名は「睦月」。由来については諸説あるそうですが「正月に親類一同が集まる、睦び(親しくする)の月」という説が代表的なようです。このなんだか穏やかな月名…1月初旬にはまさしくぴったり!という感じがしますが、成人式を過ぎる頃には、その気配は感じられないような気がします。
もうここは思い切って「(再)師走」といったような忙しさを全面に出したような名前にするのも良いのではないか…と毎年のように考えております。なお、このことを家族に力説したところ「そんなくだらないことばかり考えているから、あっという間に1ヶ月が終わっちゃうんだよ」と身も蓋もない返事が返ってきました。ギャフン…
さて、毎度のことながら書き始めが無意味に長くなりがちな坂道探訪ブログですが、シリーズも今回で8記事目(番外編も含めています)。遡ってみるとこのシリーズを書き始めたのが2021年4月のことなので、恐ろしいほどの長尺になってきました。
なお新年ということで、昨年同様に目標をお伝えしておくと「”今年こそは”港区の坂道踏破」を目指しております。
しかし実のところ、ここ最近は坂道巡りに苦戦しております。というのも、このシリーズをはじめた当初は、ここまで本格的に坂道巡りをすることを想定していなかったからです。
はじめの頃に闇雲に巡っていたがために離れ小島のようになってしまった坂道が複数でてきたり、現地に行ってみると再開発で立入禁止になっていたり、標識が無くて坂の場所がわからずに帰ってきたり…。以前のブログでも何度か方針の見直しについては触れてきましたが、微修正ではカバーできなくなってきたので、今年は方針をきっちりと決めるところからはじめることにします。
Googleスプレッドシートでの事前調査
今回方針決めをするにあたって一番はじめに着手したのが、Googleスプレッドシートでの坂道の整理と事前調査です。(右の画像のような感じで進めています)
これまでも簡単にはまとめていたのですが、参考にしていたサイトが複数あり、それぞれに「掲載されている坂」「掲載されていない坂」「表記名が違う坂」があったりしました。坂道巡りを進める中で、このことに気がついた時には青ざめましたが、数を稼ぐことを優先し、いつかやろうと放置していたのです。仕事でも言えることですが、大きなプロジェクトに取り組む際には、事前準備をしっかりと行い、戻り工数を減らすことがいかに大切かを改めて痛感しています。
坂道の整理をしたあとは、所在地や形状、標識の有無の洗い出しを行い、再開発エリアに含まれていないかの確認も可能な範囲で行っています。
Google Mapでマイマップの作成
次にはじめたのが、Google Mapのマイマップ作成機能での坂道マップの作成です。
Googleスプレッドシートにまとめた内容をもとに、Googleマイマップにピンを刺していき、「立ち入り禁止」や「標識が無い」等の注意事項がある場合には、参考サイトを貼り付けたりコメントを記入していきました。
また、歩きながらぱっと見で状況が判断できるように、「標識の有無」や「踏破の有無」等、状況ごとにピンの色分けも行っています。こうすることで、事前にルートをしっかりと決めて坂道を巡ることができますし、標識の無い坂でも迷うことなく辿りつけるようになると思います。
いつもの坂道探訪
さてここからはいつものように巡った坂道を表形式で写真と概要のみでご紹介できればと思います。なおナンバリングは前回から引き続き66番から開始しています。
66.阿衡坂(あこうざか) <場所> 港区南麻布3丁目 <名称の由来> 本村小学校一帯は、江戸時代初期には保科肥後守の下屋敷であった。保科正之は2代将軍秀忠の実子で高遠藩主保科家の養子となった。秀忠は彼の性が温厚明敏であることを認め、徳川将軍の侍従として、中国でいう“阿衡”(天子の補佐役=摂政または宰相の異称)の職にあった。これが坂名のついた由来。この人物がよほど謙虚誠実で、庶民や官僚に敬愛されていたことが分かる。 ※「東京の坂風情」より <坂の概要> 延長:130m |
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67.狐坂(きつねざか) <場所> 港区西麻布3丁目 <名称の由来> 港区元麻布二、三丁目境で長玄寺前へ下る坂。昔はさびしいところで、狐が時々人を化かしたという。 ※港区が設置した標識より <坂の概要> 延長:170m |
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68.中坂 (なかざか) <場所> 港区西麻布3丁目 <名称の由来> 北条坂と芥坂の間を西へ下るので中坂と呼ばれる。この辺りはかつて麻布三軒家町といったが、それは元禄9年に地主3人が町家をたてたことによる。 ※「江戸東京坂道事典」より <坂の概要> 延長:75m |
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69.狸穴坂(まみあなざか) <場所> 麻布台2丁目、麻布狸穴町の間 <名称の由来> まみとは雌ダヌキ・ムササビまたはアナグマの類で、むかしその穴が坂下にあったという。採鉱の穴であったという説もある。 ※港区が設置した標識より <坂の概要> 延長:250m |
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70.土器坂(かわらけざか) <場所> 東麻布1丁目3番、1丁目4番の間 <名称の由来> 榎坂下と永井坂下の合流点から麻布台地の谷間・赤羽橋に下る坂。元はかなりの勾配であったが、都電の開通などで緩く改修された。坂名の由来については二説ある。①渡辺綱がここで河原毛(黄褐色ないし亜麻色の毛色)の名馬を求めた。②この土地に土器師が多く居たため。 ※「東京の坂風情」より <坂の概要> 延長:520m |
まとめ
最後まで読んでくださりありがとうございます。
今回は方針決めで膨大な時間を費やしてしまったため、あまり坂道は巡れませんでしたが、年始早々に方針決めを行ったことで、達成までの道筋ができたような気がしています。
まだ巡れていない坂は一坂一坂が遠かったり、標識が無かったりで、達成まではまだまだ時間を要しそうですが、今年も楽しく坂道探訪をしていければなと思います。
それではまた次回の「坂道探訪8」で!